世間一般で言う恋人同士でもない――けれど、単なる友人関係ではもはや収まりきれない中途半端な関係の私たちは、一線を越える一歩が踏み出せずに会う度にやきもきとした消化不良の気持ちを抱えている(のはもしかしたら私だけかもしれないが)。そんなさなかの突然の彼女の大胆な行動に、知らず私は気持ちの高揚を覚えた。 日々私が彼女を渇望しているように、彼女もまた自分を欲しているのではないか、と。
――が、抱きついてきた彼女が尋常じゃないほど震えていると気がつくのにそう時間はかからず、それが某かの欲求に我慢しきれなかったわけでもないと理解するには、それこそほんの僅かな時間も要らなかった。
間違いなく自分の胸の中で怯えていた彼女が指差す一点を見つめて私はすべてを納得した。決して、彼女は私を求めたわけではない。……残念ながら。
「リザ」
「!!!!」
声にならない悲鳴を上げながら――むやみやたらに騒げば相手を無駄に刺激してしまうとわかっているのだろう、確かに女性特有の金切り声をあげないのは助かった――ぎゅうぎゅうに抱きついてくる彼女を私は最大限の理性で以って制さなければならなかったが。
たとえ他にいなかったからだったとしてもそんなに頼りにしないでくれ。潤んだ琥珀の瞳で必死になってこちらを見上げるその姿がどれほどまでに男の不埒な心をくすぐるのか、君はわかってもいないのだろう?
勢いでも手を出してしまうにはまだ早すぎると悲鳴を上げながら紳士的なことを主張する理性を尊重して――その意識が切れるのも時間の問題だ――努めて私は冷静な声を上げる。
「リザ。逃げる前になんとかしないと厄介だ」
「…………っ」
そんなことは彼女とてわかっているだろう。けれど抱きついてくる腕の力は強くなるばかり――どうやら私の頭も大概ちゃんと回っていないらしい。離してもらわないとなにもできないという意味をこめたのだが、明らかにこの状況下で今の台詞は逆効果だ。彼女らしからぬ態度に浮かされたか。
(……参った)
本当に、参った。
そういえば、彼女はこういうものが全般的に嫌いだった――海岸沿いの岩場で散歩をした時、かさかさという音と共に青ざめていった彼女の顔を思い出す。かくかくコマ落ちしたような動きが微笑ましかった彼女も今の状況からすれば微笑ましいを通り越して凶悪だ。
私は身動きがとれないまま、彼女が先ほど指で示した天井に近い場所を見つめた。真っ白な壁に黒いそれはよく映えた――大変よろしくないことに。
――と。
「……なにしてんの?」
「ウィンリィ」
思わず洩れた溜息は少しだけ優勢になった理性がついた安堵か、それとも状況を弁えず彼女を自分のものにする機会を失った本能がついた落胆か。どちらかなどわかりたくもない深い息を吐いて、私は背後から舞台に登場した第三の人物――己の妹を肩越しに見やった。
リザよりは色素の薄い金色の髪を適当に後ろでひとつにまとめたウィンリィは、当然ながら階段を下りてきたとたんに目に入ったリビングで抱き合う我々を怪訝そうに見つめた。が、疚しいことはなにひとつしていない――彼女の肩に回している手はこの際不可抗力の類だ――私は慌てることなく視線をちらりとつい先程まで向けていた方に戻す。つられてそちらを見つめた妹にはすべての状況が把握できたようだった。
「うわ、久しぶりだねー。……仕留められるかな」
「頼むからそれはやめてくれダーツじゃないんだ」
この反応はこの反応でまた頭が痛い。
悲鳴のひとつも上げずに、古くからの知り合いと再会したかのように挨拶すらして、おもむろにテーブルの上にあったナイフを握り締める妹を呻き声で止めた。昔はぴーぴー泣いて私の陰に隠れていた姿も――以前に住んでいた内陸部には寒過ぎて"こいつ"は出てこなかったのだ――今は見る影もない。慣れてしまったのか、神経が図太くなったのかは判断しづらいところだが。
「おい、私の部屋から発火布を持ってきてくれ」
「ほーい」
こちらがなにを考えているか察したのだろう――首を傾げることもなく、ウィンリィはたった今降りてきたばかりの階段を上って、己の部屋とは反対側にある私の部屋へと進んでいく。
光明とはまさにこのことだ。錬金術で一気に炭にしてしまえば、新聞紙で叩き損ねて更なる混乱を巻き起こす心配もない。これで目下の悩みは私の腕の中で絶賛取り乱し中の彼女だけ、というわけだ。
「飛ぶ――飛ぶんです……っ!」
「飛ばない。大丈夫だから」
リザの顔といったらまさに文字通り顔面蒼白。だが、こちらも気を抜いてはいられなかった。
ぎゅうぎゅうと抱きついてくる彼女を意識すればするほど、己の胸に当たる柔らかな感触が気になる。
別に生まれてから二十数年間、まったく女性と縁がなかったわけではない。片手で収まる程度の数ではあるが交際した女性はいたし、手を繋ぐ、接吻をする以上の経験だってもちろんある。あるのだが――情けないことに今の気分は生まれて初めて女性を抱きしめた時のガキのそれと同レベルだ。
正直、"これ"は想像以上だった。着やせするタイプだったのか、リザは――っていやいやいや、なにを考えてるんだ私は!――落ち着け。落ち着くんだ、ロイ・マスタング。いま私に抱きついているのはウィンリィだ。妹に変な気持ちを抱くわけがないだろう。これはウィンリィ。ウィンリィなんだ。
――つーか、ホント頼むから早く戻ってきてくれ、ウィンリィ!
「なんつー情けない表情してんのよ、兄貴?」
「……遅いんだよ!」
もはやリザだけではなくこちらまで半泣きになったところで、ようやく救世主の再登場だ。呆れた表情で階段から見下ろしてくるウィンリィから特殊な布でできた手袋をひったくり、右手に嵌める。親指と人差し指をわずかに擦って火花さえ生み出せば、世界でも高名な焔の錬金術師の独壇場だ。酸素濃度を調整して諸悪の権現を炭も残らないほど焼き尽くしてみせる。
――おお、と感嘆の溜息を漏らす妹君の、なんと悠長なことか。
「リザさん、もう大丈夫ですよ」
「……本当?」
ウィンリィが声をかければ、ただひたすら震えていたリザがようやくまともな反応を返した。私に抱きついているのは相変わらずだが、恐る恐るながら肩越しに振り返って――脅威が消えたことが確認できたのだろう――大きく安堵の溜息が漏れた。その十秒後。
「!!!!」
最初に抱きついてきた時とまったく同じように声にならない悲鳴を上げながら、リザが飛び退くように私から離れる――安心したとたん、はたと我に返って己がなにをしていたか気づいてしまったらしい。数分前の青白い顔色から一転、今度は首まで真っ赤にしてわたわたと手を振り回す珍しい姿を見てしまった。なんかかわいい。
「ご、ごめんなさいマスタングさん!」
「いや、別に謝られるほどのことは……」
むしろありがとう、ご馳走さまと言いたいくらいだがさすがにそれは内心にとどめておいた――先刻とは別の意味でパニック状態に陥っている今の彼女の様子では、口にしたところで聞こえちゃいなかっただろうが。
「ああもう……ちょっと頭冷やしてきます……!」
「あ、ああ……」
「いってらっしゃい……」
熱を持った両頬を手で押さえ隠しながらぱたぱたと奥のベランダへ逃げ込んでいく姿を妹共々呆然と見送る。
「…………。」
「……どしたの、兄貴?」
「ん……いや、なんでもない」
――今の状況になにか物足りなさを感じるのは腕の中にリザがいなくなったせいか。一時はあれだけ彼女の無意識な大胆行動に困惑していたくせに、いざなくなってみると空虚感を覚えるあたり我ながら現金過ぎる。
それにしても。
リザは女性にしては身長も肩幅もある方だが、身体はあんなに柔らかいのか――特にその……む、胸、が。
彼女のぬくもりが残っている気がした両手指をなんとはなしにわきわき動かしてみれば。
「むっつり変態スケベ。」
「……うるさい黙れ。」
兄の脳内を的確に見抜くな、妹よ。
軽蔑の眼差しを向けてきたウィンリィに――彼女の言葉がもろに突き刺さってずきずき痛む胸を思わずこっそり押さえつつ――私は憮然と反駁したのだった。
【END】